内容は「普通」でした。 (←これが最大の褒め言葉)
「CLANNAD」
父親が娘に愛情を示し、二人の恋も成就した。
ただそれだけの内容でした。 何も特別なところはない、「普通」のお話。
渚シナリオというものは、「普通」の物語でした。
普通というよりも、「日常」の物語。
風子シナリオのようなファンタジー性もない。
智代の蹴りに杏のオーラ、ことみのヴァイオリン等というケレン味もない。
あるのは、誰にでもあり得るような「日常」の物語のみ。
感想四話にて言及した、「朋也と渚の変わらない距離」のように、変わらずにそこにある「日常」を描いたのが渚シナリオでした。
・[幻想世界からの脱却]
感想十九話で書いたように、幻想世界というものは少女の幻想(引きこもり)世界のようなもので、そこからの脱却がCLANNADという作品のポイントだと観ています。
今回、少女とロボットが元の世界に帰るというようなことを言っていました。
それはつまり、「幻想世界からの脱却=日常への回帰」ということ。
KANONの感想記事で書きましたが、あの作品の最終的なオチは、「日常への回帰」というものでした。
そして、このCLANNADという作品においても、「日常回帰」というものは重要なポイントとなるのでしょう。
ヒロインルートは共通で、「現実の受け入れ→家族愛の再発見」という構成。 (感想十九話)
と書いたように、「日常回帰」が成されることによって初めて、シナリオは次の段階へと進みます。
渚シナリオは、この「帰るべき日常」を描いたもの。
そして、その「日常」へと帰ることによって、閉ざした心の中にあった大切なものを見つける。
今まで何度も言及してきましたが、
現実を受け入れて、その想いを溢すだけではなく、昇華させることによって、「せかい」を「循環」させていく。
これが、CLANNADという作品においての核となっている概念です。
幻想世界からの脱却、日常への回帰、大切なものの再発見、想いの昇華、せかいの循環。
これらが描かれるまでは渚シナリオ、「CLANNAD」という作品は完結しないのだと思います。
まだ、CLANNADという劇の幕は降ろされていない。
噂のアフターを楽しみにしています。
(番外編について)
予告を見る限りでは、アブノーマルな話になりそうな感じなのですが、どういう形になるにせよ、描かれるのは渚シナリオの「日常性」に対する補強なのだと思います。
騒がしくも、そこにある「日常」の描写。
「CLANNAD」
今回気になったのは、渚の態度。
共感出来ませんでした。
両親が渚の為に夢を諦めたのは、別に悪いことでも何でもないですよね。
どちらが大切か、それをきちんと「選択」した両親に対してああいう考え方をするなんて、ある意味失礼では。
・・・なんて、失った側の視点でほざいてみた。
渚の性格というか対人スタンスには、何か理由があるのかも知れません。
それが判明しない限り、何も言うことが出来そうにないので、もう少し様子を観ようと考えています。
・・・え!? 次が最終回!?
こ、コンタクトを怖がる智代かわいいなぁ〜。 (←逃避)
作中でも、「哀愁」のようなものが漂っているような気がします。
別に智代ルートが終了したからではないはず。 ・・・たぶん。
「CLANNAD」

「季節が春から夏に移行」
今回のポイントは、「作画」。
べ、別にシナリオで特筆すべき所がなかった訳じゃないんだからね! (←誤用)
今回の作画変更。
そこから読み取れるものを、風子シナリオ作画との対比を中心にして、上げてみようと思います。
・[世界の中の二人]

「6話ではこんな感じ」

「同じ場所を描いた19話」
見ての通り、この場面以外でもそうですが、19話ではかなり離れたところに「視点」が置かれています。
今までも「視点」については何度も言及してきましたが、この遠くからの「視点」についても同じように考えることができます。
・風子は「正面」から、多数の人物との「友達」の関係。
・ことみは「真横」から、朋也との「ふたり」の関係。
・智代は「隣」を空けて、そこに入る「並び立つ2人」の関係。
これまでは人物を中心にして、「人間関係が作り出す世界」を描写してきました。
それとは逆に、背景を中心にして「世界の中の人間関係」を描写しているのが今回。
以前書いた「妄想」から観る「幻想世界」と組み合わせて今回の「視点」を観てみると、妄想や幻想ではない、「現実世界」の物語に入ったことを表す描写として、今回の「遠くからの視点」が取り入れられたのだと考えることが出来ます。
人間関係によって「世界」が作られているのが、「渚ルート以外の世界」。
「幻想世界の少女」にとって現実ではない、パラレルワールド。
それに対して、渚ルートは「幻想世界の少女」にとっての現実の直線上にある物語なのだと観ています。 (少女が生まれた現実世界の過去が渚ルート)
・渚は「遠くから」の視点によって、「現実世界」を示唆。

「風子シナリオ(第8話)の1カット目」
感想八話でも書きましたが、第8話1カット目の水面に世界を映した描写は、その次のカットで「鏡に映った夢の風子」が描かれているのと同じように、「この世界が本物じゃない」ということを表していると考えることができ、そこからも渚ルート以外のシナリオはパラレルワールドであると観ることが可能となっています。
・[各ルートの共通構成]
感想十八話にて言及した、
現実を受け入れて、その想いを溢すだけではなく、昇華させることによって、「せかい」を「循環」させていく。
これがおそらく、「CLANNAD」の核となっている概念なのでしょう。
「現実」から目を背けて、心を閉ざす。固まった氷を作る。
それは、朋也と彼の父親、各ヒロインなどが共通して陥った状態です。
・風子 「夢」
・ことみ 「過去」
・杏 「応援する姉」
・智代 「不干渉」
目を背けた、心を閉ざした。
だけど、そんなつらい「現実」の中にこそ、大切なものはある。
それも各ルート共通に描かれました。
・風子 「人との繋がり」
・ことみ 「両親からの想い」
・杏 「姉妹愛」
・智代 「家族の絆」
渚が両親に謝らなければならないこと。
それもおそらく、受け入れ難く、目を背けたいような「現実」なのだと思います。
たぶん彼女の病気に関係したことなのでしょう。
そして同じように思い出せない「劇のタイトル」が、「受け入れた先の大切なもの」に相当するものなのでしょう。
ヒロインルートは共通で、
「現実の受け入れ→家族愛の再発見」
という構成なので、「劇のタイトル」も「家族に対するもの」だと推測出来ます。
・[幻想世界からの脱却]

「少女の精神世界、逃避世界が幻想世界なのだと観ている」
「妄想」から観る「幻想世界」で書いたように、僕は少女の正体は朋也、渚の娘なのだと思っています。
そして、少女ルートもヒロインルートと同じ構成を取るのではないでしょうか。
「幻想世界」とは、彼女(もしくは2人)の精神世界のようなもので、その世界の中に閉じこもっている。
その中で、「可能性」や「妄想」の象徴である「光の玉」に囲まれている。
認めたくない「現実」からの逃避世界が幻想世界で、その「現実」が起こらない別の可能性(パラレルワールド、別ヒロインルート)に囲まれている。
今まで「渚の病気」というカードを、ほとんどプラスにしか使ってこなかったのは、大きなマイナスを打ち出すタメなのでしょう。
過激な言い方をすれば、「ヒロインを殺して生かす」のがkey作品の特徴なので、渚に対してはかなりキツイ展開になるような気がしています。
そんな渚に対する「現実」から目を背けて「幻想の物語」を見てきたのだけれども、とうとう渚ルートという「現実の物語」に入って、今回。
19話ラストでのロボットを作るという行為は、欠落しているものを取り戻そうというものであって、つまり「渚」に相当するロボットを作ろうとしているということです。
たぶん、ロボットが完成したとしても動かないのだと思います。
「現実」において渚はいない(もしくは、動けない)状態なのでしょうから。
そのロボット創りの失敗をキッカケとして、幻想世界からの脱却が成されるかどうかはわかりませんが、最終的には2人(ロボットも幻想かも知れませんが)は「現実世界」へと帰り、そして「現実」の中の「大切なもの」。渚から受け取ったものを見つけるのだと思います。
・[たったひとつの奇跡は]
渚以外のヒロインルートがパラレルワールドなり幻想(妄想)なのだとしたら、そこでの奇跡も幻想(妄想)だという事になります。
だったら、未だ起こっていない「現実世界」においての奇跡。
奇跡を描くkey作品であるならば、「たったひとつの奇跡」を、本当の終わりに見せてくれるのかも知れません。
少しだけ期待を持っておこうと思います。
今回の記事は、特に妄想が多かったような気がする。
智代分が摂取出来ない分、妄想でカバーしたらこうなった。反省はしていない。
・・・たぶん。
ここから、新しい流れを作れれば。
「CLANNAD」

「氷はとけて、想いはそらへ」
杏シナリオと智代シナリオが終了しました。
どちらのシナリオも、これまでの風子・ことみシナリオと同様に、
[杏] 板ばさみ→解放
[智代] 不干渉→向かい合い
・[氷はとけて]

「青い氷と双子の妹」
失恋というものを通して、藤林姉妹は「想い」を「解放」することが出来ました。
「熱で固まった氷」をとかしたもの。それもまた、姉妹からの「熱」でした。

「完璧すぎたシーン」
上の場面は、あまりにも完璧すぎたシーンでした。
演劇部室に居ながらも、窓から外に出ている顔。
キャンディーで閉ざした口。
熱で固まった氷。
完璧すぎて、欠落している、変化を起こせない空間。
キャンディーは、ラテン語でCan(砂糖)di(型に流し入れて固める)であり、高温の加熱によって作られる。
杏が抱いた高温の「想い」は、妹を想う姉という「型」に固められた。
キャンディーはそれのメタファーであり、それが彼女の口を閉ざしている。
たとえ口を閉ざしていても、彼女の心が「窓の外」にあることに変わりはなく。
そんな「固まった氷」をとかしたのは、妹からの一言。
「ごめんね」
椋から杏に送られた「熱」は、彼女の「固まった氷」をとかし、とけた氷は溢れ出た。

「この表情がベスト」
・[想いはそらへ]

「赤い空と並び立つ人」
坂上智代。その名が示す通り、彼女は「坂の上を行く」少女でした。
涙を地に溢したのは過去であり、今、彼女は想いを「そら」へと還す。

「坂の途中で想いを溢す」
智代も、杏と同様に家族からの「熱」によって「固まった氷」をとかします。
おなじみの春原ギャグ。そこでの朋也のセリフ、
「偶然っておそろしい」
「偶然」とはつまり、自身ではどうすることも出来ない「外的要因」のことです。
それは、智代シナリオでの両親の離婚であったり、杏シナリオでの朋也・渚への確信であったり。
その「偶然」に対して、智代も杏も「固まった氷」を作ろうとします。
ですが、鷹文と椋は「偶然」、「外的要因」を受け入れて、そこから自身の「選択」をする。
「偶然」は、どうすることも出来ないかもしれない。
だけど、「選択」をすることは出来る。
椋は、姉へ「熱」を伝えるという「選択」を。
鷹文は、川へ「飛び込む」という「選択」を。
それらの「選択」を受けて、杏と智代は「固まった氷」をとかし、涙を地に溢します。
そこからさらに、坂を上り成長した智代は、今回のラスト。
坂の上(光坂高校)にて、想いを「そら」へと還して行く。
・[氷をとかして、想いをそらへ]

「さりげないシーンだけど、智代の成長と藤林姉妹の解放、可能性が描かれている」
「固まった氷」をとかして、現実を受け入れる。
そして、自身の想いを「そら」へと還すことで、新たな「循環」を作り出す。
この「循環」は、「生命の流動」と言い換えることも出来ます。
CLANNADのギャグやキャラクター等の様々な要因をまとめる「空気」は、その「生命の流動」というものです。
今までのシナリオはすべて、「固まった氷」をとかして、冬から春へと「循環」していくものでした。
[風子] 夢→現実
[ことみ] 過去→現在
[杏] 板ばさみ→解放
[智代] 不干渉→向かい合い
このCLANNADという作品の核となっているものは、ここからの「循環」なのでしょう。
現実を受け入れて、その想いを溢すだけではなく、「そら」へと還すことで、「せかい」を「循環」させていく。
今までは、単なる成長(卒業)物語だと思ってこの作品を観ていたのですが、どうやらもう一段階踏み込んだところまで描いた作品だったみたいですね。
相変わらず綺麗な作品です。
・[杏・智代シナリオについて]

「智代があまりにも美しい」
・涙、川、コーヒーなどの「水」の描写によって描かれた「解放」と「循環」。
・智代の過去と杏の現在における構造の類似から、杏の今後の成長が提示されたラスト。
・テニスコートにおける意味の違い。 (智代―坂の上、杏―観客)
これらのように、書きたいことがあまりにも多すぎてまとめることが出来ません。
本当に素晴らしい濃度と完成度を誇ったラストでした。
最後の杏の涙で全部持っていかれそうになるのですが、智代の空を見上げるシーン、俯かずに前に進む姿勢なんかは、智代好きでなくとも注目してもらいたいところです。
渚ルートに進むという「現実」を受け入れて、僕も自身の「選択」をして行こうと思います。
智代からスタートした感想ならば、彼女の意思を継がねば。
最終回まで、きちんと記事を続けますので。
(少し補足)
「そら」へと還すという表現は、「昇華する」と変換して頂ければ。
僕のCLANNAD感想は、すべて「智代かわいい」から始まりました。
なので、渚ルートに入りだすと感想を書くのが辛くなります。
しかし、だからこそ、僕は記事を書かなければならない!
「智代連盟」代表(自称)として、最期まで! (次週から受験の為お休みさせて頂きます)
「CLANNAD」

「智代の魅力が限界を突破した!」
今回のポイントはタイトルと同じ、「不在の空間」。
それぞれにとっての「不在の空間」は、
・[椋] 「意思の疎通」
・[杏] 「自分の気持ち」
・[智代] 「隣」
・[朋也] 「光」
[椋]、[杏]

「体育倉庫イベントは、いろんな意味で神掛かっていた」
朋也だけではなく、杏に対しても「意思の疎通」において、ある種の「不在の空間」が出来てしまっている椋。
占いや料理からも読み取ることが出来るように、彼女は自分の気持ちを上手く伝えることが出来ません。
彼女の物語は、「伝えなくてはならないこと」を朋也、そして杏に伝えるということでしょう。
そんな椋と同じで、杏も自分の気持ちを上手く伝えること(認めること)が出来ない。
「椋のため」と言って、「自分の気持ち」を不在にしています。
今回、杏は「他人(椋)が不在の空間」である体育倉庫に閉じ込められる事によって、「自分と朋也だけが存在する空間」を強く意識する。
「自分の気持ち」に向き合うことになった彼女が、今後どのように行動するのか楽しみです。
[智代]

「まさに智代に相応しいシーン」
上のシーンは、まさに「智代」を表したシーンでした。
「素直でかわいい」という部分でもそうですが、それだけではなくて、彼女の「隣」が不在の空間となっている点でも。
以前の感想十一話において、
風子シナリオでは、風子と他の多くの人々(視聴者も含む)との「つながり」を描くために真正面からの「視点」を強調していたんですが、それではことみシナリオで横からの「視点」が多いのは何故か。
おそらく、「ことみと朋也」が向かい合っているのであって、そこには他の誰かの視点(介入)の余地が無い。ということを表したいのでしょう。




「秘蔵の智代シリーズ(左下は16話)」
上の画像を見て頂ければ分かると思いますが、智代はかわい・・・(ゴホン、ゲフン
いずれの場面も、智代が描かれているのは中央ではありません。
智代の登場シーンの多くは、彼女の「隣」の空間が空けられた状態で描かれています。 (マイピクチャで確認済み)
この描写が表すのは、風子やことみと同様に、「智代との関係」。
・風子は正面から、多数の人物との「友達」の関係。
・ことみは真横から、朋也との「ふたり」の関係。
そして、智代は「隣」を空けて、その不在の空間に誰かが入ることによって成立する、
「並び立つ2人」の関係。
前回、困っていた智代を助けた朋也。
智代にとって、おそらく初めて出会った「並び立つ人」だったのでしょう。
・・・そういえば、今回春原が智代の手助けをしようとしていました。
あのシーンからも、
・春原を蹴っ飛ばして庇った=「並び立つ人」ではない。
・朋也と一緒に戦っていた=「並び立つ人」として認められている。
そのように観ると、智代ルートは必ずしも恋愛関係になる必要はないようですね。
大切なのは、彼女が「並び立つ人」と出会うことが出来るかどうか。
[朋也]

「体育倉庫イベントは、いろんな意味で神掛かっていた」
今回の朋也は、上のシーンが象徴するように「光」を求めていました。
渚が不在の空間は、まさに暗闇を照らす「光」が存在しない空間。
「暗闇」の中、朋也はどうしたら良いのか分からず、手持ち無沙汰になってしまいます。
今回の体育倉庫イベントも、そもそも渚不在によって巻き起こった「暗闇」でしたし。

「ミラーが画面の中央に移って行く」
渚の家が描写されるとき、多くの場合で「電柱」が一緒に描かれます。
そこからも、「渚=光」ということが分かります。
ポイントは、その「光」が「人工の光」であるということ。
「本物の光」は、今後一番重要な場面にて描かれるのでしょう。
ちなみに、上の場面は「光」から「ミラー」へと中心が移って行きます。
しかも、「ミラー」の中には「2本の影」と「1本の影」が映り込んでいる。
それぞれが、今回の主役である「藤林姉妹」と「智代」のメタファーとなっています。
「ミラー」で表されているのは、
彼女達が本当に中心に描かれるのは「鏡の中」、つまり「異なる世界」においてである。
ということを表現するためなのでしょう。
この「電柱」の描写といい、「体育倉庫イベント」といい、今回は鳥肌が立つぐらい凄まじい「濃度」で描かれていました。完成度の高さが尋常ではない。
智代も魅力的に描かれていたし、神回認定ものの一品でしたよ。素晴らしかった。
(お知らせ)
来週からしばらくは、うちのブログも「不在の空間」となります。
春が来るまで、冬眠させて頂きますので。

「俺、春が来たら智代に起こしてもらうんだ」
・・・・・・気がついたら、いつもの妄想120%でした。
「CLANNAD」

「幻想世界に対するひとつの見解」
CLANNADを視聴していて僕が感じるのは、「曖昧さ」。
何かとそれが感じられます。
そして、CLANNADにおける「時代設定」にもまた「曖昧さ」を感じます。
「リトルバスターズ!」においては、「携帯電話」がひとつの大きなキーとして登場します。
今時多くの学生が持っているはずの「携帯電話」は、しかしCLANNADの世界には登場していない。
また、CLANNADの展開は(特に17話を観れば良く分かるように)、非常に「王道的」、「古典的」なものです。
これらから考えられる事は、僕たち視聴者が観ている「CLANNAD」という作品は、
誰かの過去に対する妄想、幻想。もしくは、劇中劇や演劇の台本などである。
ということです。
「何度も登場する風子」や、「怪音波でガラスが割れる」というようなケレン味。
そういう「曖昧さ」が作中にて描かれる理由は、そこから来ている。
原作においては渚以外のヒロインとも恋愛関係になるらしいですが、そこでの整合性を保つためにも、描かれる物語は「現実」ではない「幻想」でなくてはならない。 (同時に、CLANNADが18禁で描かれない理由でもある)
おそらく、誰かが「見ている劇」or「聞いている話」が、朋也たちのCLANNADなのだと思います。
そして、その「見ている誰か」に相当する人物が、「幻想世界の少女」。
幻想世界を包む「光の玉」は、それぞれが「物語」であり、「妄想」(誰かの願い)であり、少女の周りに存在する(=少女の物語ではない)ものなのでしょう。
「幻想世界のロボット」は、以前に別の世界にいた。
つまり、彼は「光の玉」の中にいた人物であると考えられます。
「幻想世界の少女」は、「朋也たちのCLANNAD」には登場していない人物。
「幻想世界のロボット」は、「朋也たちのCLANNAD」に登場している人物。
この2人が「同じ世界」に存在していることと、「朋也たちのCLANNAD」が「過去の世界」であるという仮定を組み合わせると、
「幻想世界の少女」は、「朋也たちのCLANNAD」よりも後の時代の人物である。
そのように観ることができます。
朋也の娘とか孫なんかが、「幻想世界の少女」の正体なんじゃないかぁ。
「CLANNAD」のあらゆる「可能性」(妄想)の中に存在しているのは、朋也だけですからね。彼と縁のある人物なのは、確かそうですが。
朋也たちの「過去」に対する物語(妄想、幻想、願い)が、「光の玉」。
それらに包まれているが、自身の「光」はまだ見つけていない、まだ「CLANNAD」を見ているだけの「少女」。
感想十七話において、
「本物の光」は、今後一番重要な場面にて描かれるのでしょう。
ということを書きました。
おそらくそれは、「少女」が見つける「本物の光」なのではないでしょうか。
そして、その「本物の光」を「ロボット」(=朋也)も彼女と一緒に見つける。
それが、最終的なオチなのだと僕は観ています。
まぁここで書いたことは、ほとんどが僕の「妄想」でしかないんですけどね。
だけどその「妄想」もまた、「幻想世界」を構成するひとつの「光の玉」なのかもしれませんよ?

「町から観るCLANNADへ続く(予定)」
「CLANNAD」

「目指したいもの」
第16話のポイントは、「上下関係」。
今回描かれた関係は、
・春原−芽衣 (兄弟)
・両親−渚 (親子)
・朋也−智代 (学年)
・杏−春原 (主従) (←違う)
・杏−椋 (姉妹)
・3年−1年 (バスケ)
今回の「3 on 3」は、渚シナリオの今後の展開を示唆しているのでしょう。
確実に点(関係)を重ねるが、3年(渚の病気)が予期されていた通り登場し、自体は最悪な状況に陥ってしまう。
まさに底辺へと落ち込んでしまうが、それでもゴール(目指したいもの)を目指し、シュートを放つ。
たとえ「底辺」(絶望)に居たとしても、それでも目指したい「高み」(希望)がある。
まるで、バスケをするように。リングを目指して。
各シナリオにおいて描かれる成長(卒業)は、
・風子シナリオ 「夢→現実」
・ことみシナリオ 「過去→現在」
・渚シナリオ 「底辺→高み」

「再会の約束」
風子の目覚め、ことみの留学(フラグ)、芽衣との約束。
これらが表すものは、「別れ→再会」という流れの展開です。
今回の、試合の後に皆で笑い合いながら走っていく場面のように、
「底辺」から「高み」へと至ったその時、また皆が再会して、あの日のように笑い合う。
「とも」に、成長(卒業)した姿で、再会する。
そういうことが、最終的には描かれるのではないでしょうか。


「高みの向こうで」
という訳で、今回おそらく渚シナリオの大まかなオチになりそうな展開が描かれ、ルートも確定し、バスケも終了して、まさに「祭り」の終わりのような状況となってしまいました。
見終わった後、なんとも言えない寂しさを感じましたよ。
次週には渚も倒れる(?)みたいですし・・・。
・・・いや! 智代が出てるのなら、いつでも「祭り」さ!
坂上さいこほおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉう!!!!!!!

「も、悶え死ぬッ!」
いや、これは本当に神ですよ。何度繰り返し見たことか。 (現在14回)
おれは記事は書かないでおこうと思っていた、だが智代を見た瞬間(ry
「CLANNAD」

「智代が出るなら何度でも甦るさ!」
いやっほおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおい!!!!!
祭りじゃ! 祭りの用意をせええぇぇえぇぇえええぇいいいい!!!
つ、ついに来たか! 智代!
これはもう全キャプチャ総動員の記事を書くしかない。
夏服! ナツフク! 夏服!
・・・スイマセン。真面目に書きます。
今回からは各ルートを合わせた、まさに「祭り」のような展開に入るとのこと。
問題は誰に焦点を絞って観ていくか。
智代は次回に期待して、今回は春原、渚、朋也を中心に行きましょうか。

「ティラ・ミ・スの語源は・・・」
春原のあの倒れこんだままのカットは、「朋也との現状での違い」の描写。
自分は「そこ」に倒れたままなのに、朋也だけは進んでいく。
そんな状況を認識するが、だけど自分の力でどう立ち上がればいいのか分からない。
ティラ・ミ・スの語源は、「私を引き上げて」。
彼の心の中にはそれを切望する想いがある。
だからこそ、仁科さんの友人に対してあんなことを言ったのでしょう。
そして朋也に執拗にバスケを進めるのは、「そこ」を朋也が克服していく姿を見たいからではないでしょうか。
現在の朋也なら超えていけると信じて。そこに自分を重ねて。
もしくは、朋也が進んでいくのを認めることが出来ないのか。
未だ倒れたままの春原が立ち上がる時。
それはたぶん、「僕なりのやり方」で「他が為に」成されるのだと思います。

「何を渚は信じたいのか」
このカットでは、渚の「想い」の強さを表すためにアップが使用されています。
では、その「想い」とは何か。
何を渚は信じたいのか。
そもそも、このカットは何故に顔が半分で切れているのか。
瞳をアップにしたかった、というのが普通の見方。
もうひとつの見方が、「半分の気持ち」の描写。
仁科さん達のことを信じたい。
だけどそれは、疑う気持ちもあるということです。
それでも「信じたい」、朋也にも信じていて貰いたい。
仁科さん達ではなく、その向こう側にあるものを。
彼女の中で、何か「認めたくないこと」があるのではないでしょうか。
認めることが出来ない。だから信じたい。
だけどそれは、「半分の気持ち」でしかない。

「朋也の半分」
動と静、青と赤、渚と朋也が対比されたシーンです。
だけど、共に表されているのは「半分の気持ち」。
朋也の半分。
それは、第11話の夢の中でも描かれていました。
あの夢からは、
・ことみの「ヴァイオリン」には、彼女しかいない。
・杏に対して、「現状」を切り開くものを見ている。
・椋に対しては、占いでそんなんわかるか! (←違う)
そして、渚に対しては団子たちを通して「恋」。
ドロドロに溶ける描写は、「それへの恐れ」。
その両方を、朋也が渚に見ていると読み取ることが出来ます。
なので、この場面での朋也の半分は「恋」。
朋也と渚の想いが「半分」ではなくなるその時。
それはきっと、「同じタイミング」なんでしょうね。
という訳で、この3人から見て取れるように、
今回のポイントは「半分の気持ち」でした。
・・・まぁ、僕の気持ちは「ひとつ」ですけどね!

「こ、こんなワクワクする次回予告は初めてだぜ」
過去は気にしすぎてもヨクナイ。 (←駄目すぎる)
「CLANNAD」

「現在と過去とそれらを繋ぐもの」
ことみシナリオの構成は「ヴァイオリン」となっています。
4本の弦(EADG)によって作られているヴァイオリンと同様に、
Everyone (みんな)
Animal (動物)
Dandelion girl (たんぽぽ娘)
Gravity (重力)
・「Everyone」が、杏たちをはじめとした皆を中心とした「現在」の要素。
・「Animal」が、ことみの両親からの贈り物を中心とした「過去」の要素。
・「Dandelion girl」が、ことみと朋也の物語の中心であり、「過去」から「現在」までを繋ぐ(縦軸の繋がり)要素。
・「Gravity」が、それを求めるための超弦理論を導き、万物の理論へと至るという、「世界の繋がり」(横軸の繋がり)の要素。
ヴァイオリンが4本の弦によって美しい旋律を奏でるように、4つの構成要素によって物語が描かれていきます。

「こんなイメージに近い」
物語の大きな流れを見てみると、
1、過去において朋也とことみは出会い、そして現在2人は再開する。これが、過去→現在。 (たんぽぽ娘、マークとアン)
2、椋(現在)の事故騒動と両親(過去)の事故がシンクロして、ことみは現在→過去へと閉じこもる。 (たんぽぽ娘、ジュリー)
3、庭を元通りにすることによって、ことみの元(過去)へと行こうとする朋也。 (タイムマシンに変わるギミック)
4、2人で「過去」を取り戻すことによって、「現在」へと至る。過去→現在 (マークとジュリーアン)
このように、ことみシナリオは「たんぽぽ娘」を基盤とした物語となっていました。
両作品共通で描かれているテーマは、
・忘れた「過去」を取り戻す
・確かに「現在」は紡がれている
・「変わらないもの」はある
過ぎ去った時間を取り戻すことなんか出来ない。だけど、そこにあった本当に大切なもの、「過去」は変わらずに在り続ける。
流れる時間を止めることなんか出来ない。だから、そこにも大切なもの、「現在」は確かに生まれていく。
「過去」と「現在」、「変わらないもの」。
それらによって「世界」は構成されている。
ことみは、智也と2人で「過去」と「現在」を見つけることによって、「ジュリー」でも「アン」でもない「ジュリーアン」となります。
それが彼女と朋也の成長。
ここから、4本の弦を手に入れた彼女は、美しい音色を奏で続けるのでしょう。
過去から学び、これからの感想は一味違うものになるはずさ! (←次回へのフリ)
「CLANNAD」

「いいよね」
今回のポイントは過去。
過去に縛られていることみ。過去を忘れていた朋也。
二人は同じように「過去」を見失い、過去に居続けている。
智也は、思い出の庭を取り戻すことで、ことみとの過去を取り戻そうとします。
それはことみの為だけではなくて、自身の為でもあります。
失ってしまった大切なもの、「過去」を取り戻すために過去を再現しようとしている。
ことみシナリオにおける朋也のポジションは、「過去」の象徴であると同時に、ことみ自身とも同じなんだと思います。
そして杏たちのポジションが現在の象徴。
大切な人を失いたくない、そういう思いから引きこもったことみ。
過去(家の中)にいることみを現在(家の外)へと導くのは、朋也だけではなく杏たちの役割でもあります。
閉じた世界を広げる。
それはまるで、チョウがサナギから成虫へと成長するように。
その象徴たるチョウは、ことみと朋也の出会いの場面にて描かれていました。
朋也との出会いが、ことみの世界を広げた。
そして、十一話の夢の中では、杏と朋也の二人がチョウへと姿を変える。
・朋也自身が「再生したい」と願っている。
・杏がことみ(朋也)の世界を広げるのに、かつての朋也と同じ役割を担う。
こういうことが、あの夢から読み取れます。
そう考えると、やはり杏たちも「ことみのチョウ」なんでしょう。

「チョウは広がりと、成長と、再生のメタファー」
過去に捕われていても、過去に逃げ込んでいても、現在というものは確かにそこにあって、それは「過去」になっていく。
智也とことみは、共に「新しい過去」を築いてきた。
今回の、朋也を手伝いに来た3人娘の描写がそれを表しています。
たとえ「過去」を取り戻せなくても、「新しい過去」はそこにある。
それは、朋也にとってのひとつの希望となったのでしょう。

「智也の独白→3人娘の登場の流れは泣けました」
次回、ことみシナリオのラストで描かれることのひとつ。
それは、過去から現在への成長と広がりなんでしょう。
そしてもうひとつが、「過去」。
・・・これは次回の感想にて。 (というか次週はセンターだぁ!)
何を楽しみに過ごせば良いんだ・・・。智代も出てないから実質3週間休止だよ・・・。
「CLANNAD」

「この私服かわいいよね (←智代不在による現実逃避) 」
今回のポイントは「時間」。
今回だけで、時計の描写が5回ありました。
バイオリンを返還する場面。
バイオリンを残していった卒業生は、ことみの両親でしょうか。それとも単に、バイオリン自体が両親との思い出なのか。
過去の時間との繋がり(両親との思い出)として描かれた時計。 時刻は1時。
皆で遊びに出かけた日。
集合時間と解散時間。
出会いと別れとして描かれた時計。 8時55分と午後6時。
火と日で染まることみの部屋。
朋也とことみの思い出と今。
時刻は共に、12時35分。
時が経てば、出会いもあれば別れもある。過去の思い出に変わるものもある。
だけど、いつまでも変わらないものも、たぶんある。
「朋也とことみの時計」は、変わらないそれを表しているのでしょう。
やはり思っていた通り、朋也とことみは幼馴染でしたね。
朋也がそれを思い出していく場面。「影の蝶」が映っていましたが、あれは「思い出の復活」の象徴です。
他にも影の兎や鹿が映っていました。おそらく「影」は「思い出」を表しているのでしょう。
キリスト教では、兎は「誘惑」のシンボル、鹿は「繁栄」のシンボルです。 (たしか)
これらは、ことみシナリオよりも引用元の物語にかかるものなので気にしなくて良いですが、蝶は「復活」のシンボルとして関係しています。
ちなみに、11話の夢で朋也が蝶になるのは、彼が心の中で「復活」を望んでいるからなのでしょう。
そういえば、以前にも「ヒトデ」を「再生の象徴」と言及していました。
「ヒトデ」といえば風子。
そういう意味では、今回のポイントは「復活」でもあるのかもしれません。
はぁ、CLANNADの放送復活までの時間。あまりの長さに情熱が変化しないか心配です。
・・・智代への気持ちは変わらないけどねッ! (←成長しない奴)
例のごとくトップ画に智代を持ってくるはずだったんですが、ことみに全部持っていかれてしまいましたよ。
だれだ! こんなシナリオを書いたのは!!!
「CLANNAD」

「名シーン」
今回のポイントは、・・・・・・というかこのセリフしかありません。
「おとといは兎を見たの、きのうは鹿、今日はあなた」
おそらく、このセリフの意味はクライマックスにて明かされるのでしょう。
このセリフ一言で、ことみシナリオは描かれました。
それだけでなく、CLANNAD全体にも掛かっているように思えます。
感想四話にて「朋也と渚の変わらない距離」について言及しましたが、やっぱり「変わらないもの」が重要なポイントになるのでしょう。
変わる世界に変わらないもの。今後の「変化」にも注目ですね。
そういえば、「距離」以外に気になっていた所、「視点」についてもこのセリフによって理解することが出来ました。
風子シナリオにおいては、風子と向かい合う時の「視点」は真正面(キャラクターと同じ視点)からが多く。
ことみシナリオにおいては、向かい合っている横側(傍観者としての視点)から描かれることが多い。
風子シナリオでは、風子と他の多くの人々(視聴者も含む)との「つながり」を描くために真正面からの「視点」を強調していたんですが、それではことみシナリオで横からの「視点」が多いのは何故か。
おそらく、「ことみと朋也」が向かい合っているのであって、そこには他の誰かの視点(介入)の余地が無い。ということを表したいのでしょう。
互いに相手を見る視点は「朋也」と「ことみ」それぞれのものであって、他の誰か(視聴者も含む)のものではないんですね。
それだけ「朋也とことみ」の関係は特別なものなんでしょう。
ことみが朋也に人見知りしなかった理由にも納得。
それどころか、ことみの初登場時から既にそういう描き方をしていたのは、その時点で「朋也とことみ」という関係であったということを表していたんですね。


「風子の授業との対比でもある」
ずるいシナリオを描きますね。これじゃ、ことみに惚れても仕方ないですよ。
くそう! 僕は智代が好きなのに!
・・・いやそうか、あえて正面からの描写を減らしたのは、過度の感情移入を防ぐためでもあるのか。
そうしないと、渚シナリオに入りにくくなってしまいますからね。 (←また適当な事を)
まぁ、もう既に僕は智代に過度の感情移入をしていますけどね!

「さすが智代。なんと・・・ぐはっ!」
結構気に入っている美佐枝さんも、智代関係でしたか。やったぜ! (←何が?)
う〜む、今回は書きたいことが多すぎてまとまらない、締まらない。
しょうがないからいつもの締めで行きます。
「智代かわいいよ智代」
・・・そろそろこのオチは「変化」させた方が良いかな?
好きな分野だから、結構書いてて楽しい。
「CLANNAD」

「ぐッ、僕は智代が好きなんだ・・・・・・くそッ、負けるものかッ!」
ことみが読んでいる本は、「波動関数」や「時間量子論」というものでした。
これらは共通して「量子力学」の話ですね。
「量子力学」とは、簡単に言えば「電子などの間の現象を説明する物理学の理論」です。
「シュレーディンガーの猫」とかなら、なんとなく聞いたことがあるんじゃないかと思います。
「量子力学」には様々な解釈があるのですが、その中に「エヴェレット解釈」というものがあります。
「エヴェレット解釈」とは、要するに「この世界」以外にも他の世界があるという「他世界解釈」のことです。 (かなり大雑把な説明ですが)
CLANNADの「幻想世界」というものも、この解釈が関係してくるのかもしれません。
ことみシナリオで、CLANNADのかなり根幹的な部分を描くという可能性が出てきましたね。
そしてそれと同時に、アドベンチャーゲームというものについての論にまで発展させて行くのかもしれません。ことみシナリオのテーマとメッセージとのバランスを観て、それを書くかどうか決めようと思います。
ちなみに、ことみがヴァイオリンがヘタなのは結構おもしろい設定ですよね。
ヴァイオリンが各楽器によって音色が違う理由は、音響学上でもはっきりしていません。これも「波動」であるとか物理学なんかに関係しています。
「理論」や「数値化」できるものには強いことみですが、それが出来ない「感覚」、他人とのやり取りなんかは苦手のようです。
ヴァイオリンの上達と、ツッコミの上達。
「感覚」的なものに対する成長と、「流動」的なものに対する成長でしょうか。
何にしても、今後の展開が楽しみです。
ことみが中心なのは確かですが。
「CLANNAD」

「何故この画像なのかって?」
第十話のポイントは、「ループ」とそれを断ち切る「ツッコミ」。
風子シナリオが終了して、今回からことみシナリオに突入。ゲームだったらOPから再スタートするタイミングですね。
再スタートということで、以前と同じような日常が始まります。
もちろん変化はあるのですが、渚の部員集めや春原のバカっぷり、フラグ立てに勤しむ朋也に智代の蹴り、杏からのアタック(←違う)などのように、第二話と同じような展開が繰り広げられます。
そしてギャグの部分でも、執拗にことみが同じネタを繰り返したり、トリオが同じ自己紹介をしたり、次回予告までひたすら同じツッコミを繰り返しています。
これらはある種の「ループ」なんですけど、それを断ち切るのが劇中でも描かれているように「ツッコミ」。
今後の展開では、これがひとつのポイントになりそうですね。
ことみに変化をもたらすのに朋也はもちろんですが、ツッコミ役の杏も重要な役割を演じるような気がします。
そういえば、椋が杏をサポートしてるのかと思っていたら逆だったんですね。でも二人とも朋也が好きなんですよね? 杏は相変わらずですが、椋の黒さには驚きました。
後は春原も気になりますね。「本棚を倒す」という行為が今後のフリだったり。
まぁ、一番気になるのは「くまが好きな」彼女なんですけどね!

・・・毎回同じオチになる。
この「ループ」、だれか「ツッコミ」入れてくれませんか? (馬鹿)
(「量子力学について」に続く)
「CLANNAD」

「春」は、出会いと別れの季節であると同時に、次の段階へ以降する時期でもあります。
「卒業」と言っても良いかもしれません。
予想の通り、風子シナリオで描かれたのは、
「夢」から「現実」へ
「子供」から「大人」へ
という形での「卒業」でした。
[夢→現実]
だけど、ラストは予想していた「風子の再生」ではありませんでした。
「夢」から「現実」へ、さらに「夢」へ
という流れに持っていくんですね。
この流れもすごく綺麗で良かった。
人々が、「ずっと見ていたい夢」から「現実」を見るようになって、「ずっと見ていたい夢」 (夢の風子)が見えなくなる。
「大人になる」ということだから、「それは仕方が無いこと」。
だけど、そこからさらに変化があって、人々はまた「夢」を見るんですね。
「ずっと見ていたい夢」(夢の風子)ではなく、「実現して欲しい夢」(風子の目覚め)を。
そして、その「夢」は以前とは違う形で、以前と同じように校舎を駆け回っている。
「噂」というかたちで、実現して欲しい「願い」として。
「夢」から「現実」へ、さらに「夢」へ
その先に待っているものは、きっと。
ぐはっ! あまりの美しさに泣きました。
これは純粋に「美しい」といえる物語ですね。素敵でした。
「夢」から「現実」を見るようになるだけではなくて、「現実」を見ながらも「夢」を見続けられる。それが、本当の意味での「大人になる」ということなんだと思います。
[子供→大人]
この風子シナリオは、もちろん「人と人との繋がり」も描かれているのですが、一番大きなテーマとして描かれたのは、「子供」から「大人」への成長、卒業というものでした。
[風子]
風子は、公子さんの結婚を祝福することにより、彼女から卒業する。「親離れ」のようなものですね。
そして、ラストシーンの朋也への一言、「風子の、お友達になってください」。
姉の為ではなく、自分の為にヒトデをプレゼントする。
風子の成長、大人への変化が最後に描かれました。
ヒトデという「夢」の友達ではなく、朋也たちという「現実」の友達を作った風子が、「夢」から「卒業」する日は必ず来るはずです。
[朋也、渚]
朋也と渚の二人は、一度見えなくなってしまった風子を、幸村さんの言葉をきっかけにして再び見ることが出来るようになりました。
「大人」になれば、かつての「ずっと見ていたい夢」は見えなくなってしまうはずなのに。
これは風子との「つながり」によるものなんですが、それだけではなくて、作り手からのもうひとつのメッセージでもあるんですね。
たとえ「大人」になって「子供」の頃の夢や視点を失ってしまっても、決してなくならないものがある。
子供の頃に感じていた「感覚」や「想い」は、きっと失われない。
そういうものを持ち続けて欲しい。
そんなメッセージも込められているのではないでしょうか。
先程書いた、「現実」を見ながらも「夢」を見続けるということと合わせて、そんな「大人」になって欲しいというメッセージが、風子シナリオの裏側では描かれているのだと思います。
単純に物語だけを見ても感動的な作品なんだけど、このように深く読み込もうとすると、様々なメッセージを読み解くことが出来ます。
なるほど、これがKEY作品なんですね。
良いなぁ。この「美しさ」に惚れました。
風子シナリオを描き上げた京都アニメーション共々、拍手と賞賛を送ります。
ちなみに作品を観る以前の段階で、その「美しさ」に魅了されたのは智代。彼女のシナリオが楽しみで仕方ありませんよッ! (←お前はもう少し大人になれ)
べ、べつに智代が好きなだけで持ってきた訳じゃないんだからね! (←馬鹿)
「CLANNAD」

「この場面は希望なのですよ」
冒頭の、水面に世界を映した描写は何かな。「この世界が本物じゃない」とかそういうことのメタファーなのでしょうか。
まぁ、少なくともその次に映し出された映像、「鏡に映った風子」に関しては、「そこにいる彼女は本物の風子自身ではない」ということを表しているのは確かですね。
今回のポイントは「感覚」。
風子の、「体が警告しました」
朋也の、「こいつも風子を忘れちまう気がする」
春原の、「感覚だけは残ってる」
これらのように、セリフの中でも「感覚」が描かれていました。
久しぶりに登場した美佐枝さん。今回もまた、「好き嫌いが多い」というセリフでポイントを表していました。
「好き嫌いが多い」、これは「子供」を表しているだけではなくて、「意思」よりも「感覚」が勝ってしまっているということも表しているんですよね。
食べ物の話以外でも、「感覚」が「意思」を超越して支配することはよくあります。
「本能」が「理性」を支配すると言い換えてもいいかもしれません。
そう考えると、逃げていくラグビー部員が「生理的に受け付けない」と言われてしまいそうなタイプとして描かれていたのにも納得。鬼のようなレベルで作品を作りますね。
美佐枝さんのシーンは好きです。めちゃくちゃ濃い上に、彼女自身スペックの高い人みたいですからね。他の人はあまり取り上げていないですし。 (ひねくれ者)


「京アニの実力の象徴」 「かわいいよね」
風子のことを人々が思い出せなくなる。「再生」の前の「破壊」としての演出と観ることも出来ますが、では何故忘れていくのか。あるひとつの考察が出来ます。
人々が風子のことを思い出せなくなったのも、「感覚」が「意思」を押さえ込んだせいではないでしょうか。
今そこにいる風子は、最初に言ったように「本物の風子自身」ではない。
本物の風子は病院のベッドで寝たきりです。寝たきりの彼女があんなに元気なはずがありません。もっと痩せてしまっているのでしょう。
病院の風子に会いに行った人が、風子のことを思い出せなくなる原因もそこにあります。
ほとんどの人も「感覚」で分かっているのでしょう。そこにいる風子は本物の彼女ではない。真に受け止めなければいけない現実がある、そういう「感覚」が思い出そうとする「意思」を押さえ込んでしまっているのではないでしょうか。
「大人」なんですよね。「夢」を見ていられない。
「現実」を見てしまえば、もう「夢」を見ることは出来ない。
だから、人々は風子が見えなくなっていく。
風子ルートで描かれる物語。それは、
「子供」から「大人」へ。
「夢」から「現実」へ。
「破壊」から「再生」へ。
「感覚」よりも「想い」。
これらも描かれるんだと思います。
朋也のセリフ「夢の最後まで」。あのシーンに映し出された満天の星空。ヒトデ(スターフィッシュ)はやはり「願い」の象徴です。
だけど、それだけではない。
今まで何度も言ってきましたが、ヒトデは「再生」のメタファーでもあります。
それを証明したのが、今回の智代のシーン。
ヒトデを見て、智代は風子のことを思い出します。
これは、思い出そうとする「意思」を押さえていた「感覚」を、風子からの「想い」によって超越したという描写。 (さり気ないけど、実はかなりの燃え展開)
風子のひたむきな「想い」をきちんと受け取って、「感覚」を打ち破って見せた智代があまりにも素敵すぎました。 (さり気ないけど、実はかなりの萌え展開)
「想い」は、「感覚」を超えることが出来る。
「想い」は、「本能」を超えることが出来る。
こういう「人間の尊さ」が、このシナリオの裏側で描かれているんですよね。
ぎゃああ! なんという構成! 素晴らしい!
ただ「泣ける」だけのシナリオではありませんね。惚れちまいそうだ。
というわけで、智代のシーンはやはり「希望」。
「想い」による「再生」が、最後にはきっと待っているはずです。
(ここに来て、トップ画の正当性を主張)
いや〜、智代が素敵すぎますね。皆さんもこの記事を読んで、智代のさらなる魅力に気付いたはず。 さぁ! そんな君も「智代連盟」に加入しよう! (←馬鹿)
・・・なんだよ、あの「パトロールのボランティア」の言い方は。
・・・・・・要するに「智代かわいいよ智代」という話。 (ま た そ れ か)
「CLANNAD」

「なんという素敵な娘」
第六話のポイントは「認めること」。
独創的なパンを認めてもらえない早苗さん。
風子に認めてもらおうとする親衛隊(白石軍団)。
風子に認めてもらおうとする春原。
風子を認めて彼女を応援する人々(三井さん)。
・・・・・・風子たちにとって認めたくない事実も。
本当に基本的なことなんですが、この作品はきちんと一話一話をあるひとつのテーマで括って描いています。こうすることで、ネタを入れたりと脱線しても、バラけた印象を視聴者にほとんど与えない。 こういう所が高いクオリティーの下地になっているんですよね。
他にも、さり気ない描写で上手くポイントを表していたりもします。
前回の感想五話でも書いたように、風に舞うタンポポがふわふわと浮いている風子の状況、公子さんの気持ちのメタファーであったり。花言葉で「別離」などを暗示していたり。
さすがの一言に尽きます。
花言葉といえば、今回もそういう描写がありました。芳野 祐介が登場するシーンで映し出された「パンジー」。意味は「純愛」、「思想」。 彼にはピッタリな花ですね。
タンポポとは「思い出」という意味が共通しています。
「思い出」かぁ、「思い出」なんですよねぇ・・・。 (やっぱりヒトデが「再生」のメタファーであってほしいなぁ)
ヒトデといえば、


「全力な京アニに惚れる」 「岡崎さいこぉほぉぉう!」
こういう笑いがあるから、三井さんのシーンなんかが際立ってきますよね。
あのシーンはありがちだけど、良いシーンでした。
なんか今回は特に京都アニメーションへの賞賛が多い感想になりました。それだけ京アニを認めているのでしょう。
僕も人から認められるような感想が書けるようにガンバリます。
ちなみに、僕は智代が一番素敵だと認めていますよっ☆ (ま た そ れ か)
正直、感想書かないでおこうかとも思いましたよ・・・。 しかし!!!
皆口裕子さんがいるじゃあないか! 彼女の声にゃ弱いんですよ。
復活&癒されたので、今日も楽しんで感想書きます。
「CLANNAD」

「このシーンは鳥肌立って涙も出ました」
第五話は風子のお話。 「風子ルート」に突入した! (←タグ打ち表現の限界)
まさに演出回。ネタなんかを挟みながら、少しずつ蓄積していく良演出。最後の風子の笑顔で涙腺崩壊。トリハダ発動。すげぇ、凄すぎるぜ!!!
(映像面)

瞳や髪の動きが、見事に渚の動揺を表現していました。
他の場面も非常に画がよく動いているので、見ているだけでおもしろい。

ここでは風子の喜び、子供っぽさが、これまた見事に表現されています。
子供は楽しいときによく足を振るんですよね。人間の行動をしっかり掴んでいます。
これらの場面を見ているだけで分かります。
この作品は、単なる[原作=アニメ]ではなく、原作をきちんと消化したうえで、アニメに再構成している。アニメーションの製作者としては、十分に合格点を与えられるイイ仕事です。
(内容について)
風子は「孤独」なんですよね。家には帰れない、学校にも居場所がない、友達もいない。
風をふわふわと漂い続けるタンポポのように・・・。
そんな風子が、自分のまわりにいる「友達」、自分の居場所に気付いたときの笑顔は、涙なしで見ることは出来ませんでした。
風子がひとりだけ映っているところから、皆の表情を入れながら少しずつカメラを引いて、彼女たちも一緒に映し込んでいく。その様子に合わせて盛り上がっていくBGM。・・・反則ですよこれは。 名場面が誕生した! (←それはもういい)
(分析とか)
風に舞うタンポポは、「風子の孤独」、「公子さんの迷い」を表しています。
今回のお話の最後で、タンポポは学校にやってきます。友達のもとへ。そこがタンポポと風子の居場所。
次回予告で、地面にしっかりと根を降ろしているタンポポが写っていたので、公子さんのふわふわした迷いも、タンポポと同じように着地(解決)するのでしょう。
ちなみに、タンポポの花言葉には「楽しい思い出」、「別離」、「また逢う日まで」というものがあります。・・・既に泣きそうなんですが・・・。
願わくば、ヒトデが「再生」のメタファーであってほしい。(ヒトデはトカゲのように再生力が高い)
そういえば、脇役もいい仕事をしていましたね。
美佐枝さんは、春原ギャグだけの為に登場した訳ではなくて、朋也のセリフ「構って欲しいんだよ」を導いています。そのセリフから、第五話のポイント「孤独」を観ることが出来ます。
三井さんも、風子の孤独を表しています。彼女の役割はこれだけなのでしょうか。何か変化があって公子さんを祝って欲しいなぁ。彼女も風子の居場所(友達)になってほしい。
変化といえば、朋也。
最初の方は頭の中だけでツッコんでいた彼が、最近ではガンガンとツッコんでいます。ズッコける朋也なんて、第一話では想像できませんでしたよ。渚たちと共に時間を過ごすことによって、彼も生き生きし始めました。
僕も、朋也や渚たちと共に過ごす時間、この作品にどんどん引き込まれています。
風子でここまで感動できたのなら、智代ルートはどうなるんだ? ・・・ゴクリ。僕は生き残れるのだろうか。(馬鹿)
(追記)
そういえば、「孤独」で思い出しました。風子やことみが好きな人はよく見かけるのに、智代好きはあまり見ないような・・・。援軍求む!
智代連盟が発足した! (← 現在孤軍奮闘中、↓ に援軍コメント求む!)

